2006年05月24日
新しい帝国とコメディノロジー
コメディが料理と似ている点は、
共に「帝国の申し子である」こと。
かつて帝国が栄華を誇った国や地域ほど、
より洗練された料理の体系が培われているように、
洗練されたコメディも、また、
帝国の存在と不可分な部分が少なからずあるように思われる。
というのも、
コメディには、人間(社会)の矛盾が不可欠。
矛盾から逃れる為に、人は笑いを必要とするし、
また、矛盾を客観的に眺めると、コメディそのものだったりする。
その点、
まるで矛盾の宝庫のような帝国は、コメディの温床のようなのである。
そういった帝国とコメディの関係を考える上で大切なのは、
やはり、時代と共に進化する帝国の未来形を想像することだろう。
いま、世界は、モンティ・パイソンを生んだ大英帝国や、
アトミック・カフェやサウス・パークなどを生んだアメリカといった、
時代毎の覇権的国家を頂点とする世界帝国と、
マイクロ・ソフトやグーグルといった、その時代を象徴するテクノロジーを保有する
覇権的企業に代表される新しい帝国の共存時代に突入している。
そして当然の流れからいって、
新しいコメディは、新しい帝国を意識することで見えてくる。
いま、私が注目しているのは、「検索」をキーワードにした新しい帝国である。
『グーグル google〜既存のビジネスを破壊する〜』(佐々木俊尚・著/文春新書)や
『web進化論〜本当の大衆化は、これから始まる〜』(梅田望夫・著/ちくま新書)
などの参考書籍を読めば、
ジョージ・オーウェルの小説『1984』や
テリー・ギリアムの映画『未来世紀ブラジル』、
筒井康隆の小説『48億の妄想』などの、
かつて近未来SFと呼ばれたジャンルの毒の効いた作品群のコメディが、
いまや現実の中にもリアルに感じられると納得できるはずである。
といって、たとえば、サーチエンジンの帝国といったものが、
必ずしも、映画『マイノリティ・レポート』のような方向に進むとのみ考えるのは、
想像力の貧困というものだろう。
かつて、フランス帝国が、その最後に、素晴らしい洗練とほのぼのさを兼ね備えた
ジャック・タチのコメディ映画を生んだように、
帝国が洒落たコメディを生む可能性も否定してはオモシロクないのだから。
by 須田泰成 公式サイト
By Yasunari Suda:2006年05月24日 04:32
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